罪を憎んで人を憎まず

 
 「罪を憎んで人を憎まず」というコトワザがあります。
 
 罪を犯した人を憎むのではなく、犯された「罪」というものの存在自体を憎みなさい、という意味です。
 
 
 小学生のとき、このコトワザの意味を知った僕は、激しい憤りを覚えました。
 「何だこの犯罪者をかばうようなコトワザは! 悪いことをした奴が皆から憎まれて酷い目に会うのは当然! 自業自得なのだから!」と。
 おそらく、この記事を読んでいる皆さんの中にも、そのような考え方をお持ちの方がいらっしゃると思います。
 
 ですが、大学4年生になった現在の僕は、このコトワザが訴えていることの正当性を、2つの理由から納得するようになりました。
 
 
 1つは、「人を憎んでいたって何も進歩しない」という理由からです。

 殺人にしろ、政治家の汚職事件にしろ、中学生の万引きにしろ、何らかの罪が犯されれば、そこにかならず被害者が出ます。そして、被害者やその関係者、また、直接事件には関係はないが、マスコミの報道などでその事件のことを知った人達が、「犯人」への憤りを感じます。
 しかし、被害者に憤って、憎しみを込めて、それだけで問題が解決するでしょうか? 何にもならないはずです。それよりも、その犯罪が起きるのにどんな背景があって、ではどうすれば今後はそれが起きないようなシステム、社会を作れるか、そういう思考をする方が、未来の被害者を減らすという点で、より進歩的であるはずです。

 何も、「加害者を憎むな」と言いたいわけではありません。大切な家族を殺害された遺族の方々に、「犯人に怒りを感じるな」なんてできるわけがないです。しかしそんな時にこそ、より客観的な判断を下しやすい周囲の人達が、その時の感情に流されているだけじゃなく、もうそんな悲しみを繰り返さない未来を作るために、建設的に考えて行動すべきである。と、このコトワザは訴えているような気がします。
 
 
 2つ目の理由は、「ある人が犯罪が犯すかどうかは、結局、その人が生まれ育った環境に拠る所が大きい」という理由です。
 
 犯罪者自身に責任が無いとは言いません。犯罪者は犯罪者として、被害者の受けた肉体的精神的な被害に報いるため、また、社会全体の幸福のために、しかるべき罰を受けるべきだと思います。
 
 ただ、幼い頃から、両親からの暴力や、学校での陰湿なイジメ等を受けたりして、温かな人間味のある心を持つことが困難ななか育ち、結果として犯罪を犯してしまった人達のことを、たまたま運良く恵まれた環境で育ったがゆえに「まともな神経」を持てただけの人達が、「死ねゴミクズ」と見下せる権利があるのだろうか、とも思うのです。
 
 人というのは、1つの社会の中で連鎖して生活している生き物だと思います。この社会は、人々に様々な幸せをもたらす一方で、その皺寄せとして、どこか遠くで、時にはすぐ近くで、不幸なエラーを起こします。社会が生む幸福を享受している以上、それが起こすエラーの責任は、全ての人が少しずつ背負って、エラーが起きないような社会に近付けていかなければならないのではないでしょうか。
 「特定の絶対悪がいて、それ以外の人は全く悪くない」、そんな単純な問題は、究極的には存在しないのではないかと思います。その意味で、「罪を憎んで人を憎まず」というコトワザに、納得できるのです。