人を動かす

 
 「自分はこのコミュニティで人の動かし方を学んだ云々…」みたいなことを、当該コミュニティの人達が閲覧しているSNS上の日記なんかに平気で書いたりする人って、正直なかなかトチ狂ってると思う。
 ちょっと相手の立場に立って考えられる人なら、「俺が君らを動かしたんだぜ」なんて、まるでモノを扱ってきたかのような横柄極まりない表現は、とても使えない。「動かす」って言葉は簡単で便利だから、自分の頭の中で便宜的に使うことはあっても、大好きな仲間に伝える言葉として使うなんて、とんでもないと思う。
 こういう人達って、周りの人達を愛する気持ちとか、夢や理想のために頑張ってるんじゃなくて、なんとなく「仕事ができる人間だと皆から思われたい」という気持ちばかりを歪に膨らませて、日々「タスク」をこなしているんだろうなぁと、どうしても思ってしまう。
 

頭のハチがはりすぎ

 
 
 

無性にクルージングがしたい。
  
 
 
 
 
最近、少し気の狂ったヤンキーみたいなのにすごく憧れています。ヤンキーというかストリートギャング、みたいな感じかな。今夜も池袋ウエストゲートパークのDVDを見て煮え立ったトマトカレーみたいにワナワナ興奮する予定。早くパツキンにしてぇ。
  
 
 
 
 
自分のお勧めの品を「貸そうか!」と言って躊躇わずに他人にススめられる人を尊敬します。相手が本音では「いらん」と思ってたらどうしようとか考えて僕は逡巡してしまう。
 
 
 
 
 
自慢できることは、虫歯になったことがないことと、視力が良いことです。
 
 
 
 
 
焼き鳥に例えるとたけのこの里がタレできのこの山が塩なんだと思います。
 
 
 
 
 
「あのふたりはほんとに見てて微笑ましいしベストカップルだね」とか、外野は好き勝手言うけどれど、本当は当事者たちは色々なことを経てきているし、今だって問題を抱えているかもしれない。どんな恋人同士にもきっと色々あるんだ。
 
 
 
 
 
いつもなら無視しちゃいそうな信号も「今日は待ってみるか」って思えたときの、余裕ある心の状態が好き。
 
 
 
 
 
なんかわからんけど僕の家の台所の排水溝の中に絶対「ワキガ多汗症は俺にまかせろ!」のおじさんが住んでると思う。日々そんな感じのにおい。
 
 
 
 
 
高校生は「そくばく」って言いたがり。
 
 
 
 
 
すぐ派閥を作ろうとする人ってほんとに「向き合う」のが恐いんだと思う。相手とも自分とも。
 
 
 
 
 
煙草を吸う人が嫌いなわけではないけど、目の前でプハプハやられながら「俺ぜったい肺真っ黒やわ!ぎゃははは!」とか言われたら何となく今すぐそこで死んでほしい。
 
 
 
 
  
いっぱい笑いを取れたらそれだけたくさんの笑顔を見られるんです。
 
 
 
 
 
服屋の店員さんとコミュニケーションしてるときに「ズボン」という表現を使うとナメられそうな気がするしかと言って「パンツ」とか言うのもキザで柄じゃないから嫌だ。
 
 
 
 
 
悲しくて切なくて苦しくて好きで好きでたまらなくてどうしようもなく辛い気持ちを抱えるのも、鉄の心になって何も感じない、人間とサイボーグのキメラみたいな状態よりずっといいよ。味わい尽くしてまた1つジューシーな内面を養おう。 
 
 
 
 
 
他人の家のパソコンの検索ワード履歴を勝手に見るのだけはほんとにやめるべきだと思う。というかやめて。
 
 
 
 
 
たいせつな人の怒り悲しみ憎しみ不安をほんの少しでも共有したい。そしてたまに僕の分も共有してほしい。そんな風に暮らしていきたい。
 
 
 
 
 
ティッシュペーパーとトイレットペーパーを一度に買うとそれだけで買い物カゴがいっぱいになるネ!☆
   

東京

 
 明日の内定式に出席するために、今夜から夜行バスで東京に行ってきます。
 東京という場所は関西在住の僕にはよく分からないですがすごく怖い所みたいです。アカサカサカスとかいう化け物もいるらしいです。果たして無事帰って来れるのか不安でしかたない。

 とりあえず今夜は心行くまでリクライニングできることだけを祈りつつ、行ってきます。
 

10月

 
 またも1週間くらい更新をさぼっているうちに10月になっていました。
 
 この1週間はと言うと、地元に帰って3年ぶりに高校の時の先輩に会っていたり、滋賀の山奥にキャンプに行って尻の穴に詰めても痛くないくらいかわいいタヌキに遭遇し胸キュンしていたり、留学から1年ぶりに帰ってきた友人を迎えようと男5人でお帰りパーティーを開いたにも関わらずパーティー中終始留学についての話題に一切触れず皆無心になってボイルされたシャウエッセンを食べて食欲を満たした後に性欲にまつわる話を繰り広げ宴もたけなわになった頃に『呪いのビデオ』と『働くおっさん劇場』をレンタルしてきてダラダラ視聴していたら留学から帰ってきた友人が真っ先に寝て睡眠欲を満たし始め極めて発散的にパーティーが終了するなどといったエレガントライフを送っていました。

 10月になったということでそろそろ小説の執筆活動を始めようと思います(この一文すごくおかしい)。

 大学生活もあと半年、みんな遊んでね!


 最近よく使ってしまうフレーズは「ルサンチマンを込めて」です。
 

罪を憎んで人を憎まず

 
 「罪を憎んで人を憎まず」というコトワザがあります。
 
 罪を犯した人を憎むのではなく、犯された「罪」というものの存在自体を憎みなさい、という意味です。
 
 
 小学生のとき、このコトワザの意味を知った僕は、激しい憤りを覚えました。
 「何だこの犯罪者をかばうようなコトワザは! 悪いことをした奴が皆から憎まれて酷い目に会うのは当然! 自業自得なのだから!」と。
 おそらく、この記事を読んでいる皆さんの中にも、そのような考え方をお持ちの方がいらっしゃると思います。
 
 ですが、大学4年生になった現在の僕は、このコトワザが訴えていることの正当性を、2つの理由から納得するようになりました。
 
 
 1つは、「人を憎んでいたって何も進歩しない」という理由からです。

 殺人にしろ、政治家の汚職事件にしろ、中学生の万引きにしろ、何らかの罪が犯されれば、そこにかならず被害者が出ます。そして、被害者やその関係者、また、直接事件には関係はないが、マスコミの報道などでその事件のことを知った人達が、「犯人」への憤りを感じます。
 しかし、被害者に憤って、憎しみを込めて、それだけで問題が解決するでしょうか? 何にもならないはずです。それよりも、その犯罪が起きるのにどんな背景があって、ではどうすれば今後はそれが起きないようなシステム、社会を作れるか、そういう思考をする方が、未来の被害者を減らすという点で、より進歩的であるはずです。

 何も、「加害者を憎むな」と言いたいわけではありません。大切な家族を殺害された遺族の方々に、「犯人に怒りを感じるな」なんてできるわけがないです。しかしそんな時にこそ、より客観的な判断を下しやすい周囲の人達が、その時の感情に流されているだけじゃなく、もうそんな悲しみを繰り返さない未来を作るために、建設的に考えて行動すべきである。と、このコトワザは訴えているような気がします。
 
 
 2つ目の理由は、「ある人が犯罪が犯すかどうかは、結局、その人が生まれ育った環境に拠る所が大きい」という理由です。
 
 犯罪者自身に責任が無いとは言いません。犯罪者は犯罪者として、被害者の受けた肉体的精神的な被害に報いるため、また、社会全体の幸福のために、しかるべき罰を受けるべきだと思います。
 
 ただ、幼い頃から、両親からの暴力や、学校での陰湿なイジメ等を受けたりして、温かな人間味のある心を持つことが困難ななか育ち、結果として犯罪を犯してしまった人達のことを、たまたま運良く恵まれた環境で育ったがゆえに「まともな神経」を持てただけの人達が、「死ねゴミクズ」と見下せる権利があるのだろうか、とも思うのです。
 
 人というのは、1つの社会の中で連鎖して生活している生き物だと思います。この社会は、人々に様々な幸せをもたらす一方で、その皺寄せとして、どこか遠くで、時にはすぐ近くで、不幸なエラーを起こします。社会が生む幸福を享受している以上、それが起こすエラーの責任は、全ての人が少しずつ背負って、エラーが起きないような社会に近付けていかなければならないのではないでしょうか。
 「特定の絶対悪がいて、それ以外の人は全く悪くない」、そんな単純な問題は、究極的には存在しないのではないかと思います。その意味で、「罪を憎んで人を憎まず」というコトワザに、納得できるのです。

年齢確認

 
 「お酒を買う時にレジで年齢確認された! ちゃんと20歳超えてんのに疑われた! しかも免許証見せて証明しても謝りもしねぇ! ほんとふてこい野郎だ!」

 などという発想は、『成人』の烙印を額に刻んでいるわけでもない冴えない面を見せただけで、周囲の人が「あぁこの人は確実に20歳を超えているな」と、ちゃんと自分のことを理解してくれる。そんな甘ったれ前提の上に成り立った、自意識過剰・自己中心的でとてつもなく幼稚な発想だなぁと、思います。
 他人とのコミュニケーションの中で自分の思い通りにならないことが起こったときに「とりあえず相手の立場にも立って考えて、それから結論を出そう」という、白チャートレベルの基本的な思考回路ができあがっていないなんて、良い歳してほんとに幼稚。そりゃ未成年オーラも出てるだろうね。