『個人的な意見』というもの

 
 『個人的な意見』というのは、実によく見聞する文字列である。
 居酒屋に若い男女数人が集まって、自分達の所属するサークル団体の運営方針について、特に1つの結論を目指すわけでもなく議論(というより談話)をしているときに、誰かが「個人的な意見だけど…」という文句から発言を繰り出す。名前も顔も分からない埼玉県在住の20代女性が運営しているらしいブログ上の記事で、自身の贔屓している芸能人が何らかのスキャンダルでバッシングを受けているという問題に大して、その20代女性がお世辞にも論理的とは言えない持論を展開し、最後に「以上ですが、これは私の個人的な意見です」という言葉で締めくくる。

 僕はこの『個人的な意見』という言葉に対して、少し違和感を持っている。だって「意見を言う」というのは、自らの考えを述べることでしょ? それなら、『意見』なんていうものは、最初から全部『個人的なもの』に決まっていると思うのだ。個人的でない意見なんてそもそも自分の意見じゃない。他人の考えをそのまま述べたり書いたりするのはただの引用で、自分個人の考えを何らかの形で付け加えるから『意見』なのである。

 ではなぜ、人はわざわざ「個人的な意見ですが」とか言うのだろうか。

 この文言を使う人、皆が皆そうとは限らないが、おそらく、結構多くの割合の人が、自分の意見に対する他者からの批判的な意見が来るのを予防するために、ある種の牽制的な意味合いで使っているのだと思う。「人それぞれ価値観が違うから、違った意見があります。意見は人それぞれです。これは僕の個人的な意見です。だから反論しないでね」といった具合。
 
 また、それとは少し違うケースとして、持論の根拠となる知識を十分に持てていないまま論を展開していたり、まだまだ考えを詰められていないと自覚している持論をとりあえず述べる場合などに、「正直自分の言っていることには自信ないです。お手柔らかに」と言いたいのを、少し曖昧な言い方にしてぼかしている場合もあると思う。

 後者の方はまぁ分かる。世の中の人皆がどれだけ勉強していようとも、それぞれに知っていることと知らないことが、当然ながら存在することになる。かと言って、自分が明るくない分野については何も意見を述べてはいけない、というのは酷なものだろう。だから時に人は、あまり自信の無い事柄について、拙い知識を紡ぎ合わせながら、生まれたての草食動物が立ち上がるときのように、一生懸命に持論を述べる。拙い知識を土台にしたものだから、綻びは色々な所にあるだろう。そこを『知識人』についばまれるのが怖くて、「自信は無いですが、お手柔らかに」という文言を最後に付したくなる気持ちはすごくよく分かる。
 しかし、そうならそうと、素直にそのまま言えばいいのに、とも、同時に思う。「私の見識に足りない所があれば、何でも指摘してください」と素直に言ったら、心優しい側の『知識人』の人達は、喜んで教えてくれるだろう。

 僕が問題だと思うのは、前者の、「意見は人それぞれだよね」の方である。人それぞれに意見があるのは当然だが、だからって「反論はさせないよ」というのはいかがなものか。
 反論を認めなくていいのは『感想』だけである。例えば誰かが、天下一品のラーメンを「まずかった」と言ったとする。そこで、天下一品のラーメンが大好きな僕が、その感想を間違っていると言ったり、「こってり過ぎて嫌」という彼に対して「それが良いのだ」とまくしたてたとしても、彼が天下一品のラーメンを「まずい」と感じてしまったのは揺るぎの無い事実で、これは反論のしようがない。そもそもこれは『論』ではなく、感覚で感じる嗜好の問題だから。
 でも、『意見』は違う。意見と言うものは「Aという事実があって、それがBをもたらすから、Cをするべきである」というように、事実を組み立てて結論を導き出すものである。だから、「Aという事実は無かったんだよ」という反論、「AだからBということにはならないよ」という反論、「BはCをすべきという根拠になっていないよ」という反論が、どんな意見に対しても起こり得る。個人の嗜好ではなく、客観的な事実を積み上げて意見を言った以上、「個人的な意見だから反論は無しだよ」なんていうのは、全くのナンセンスなのである。


 「ココ壱のカレーはうんこからできてるんだよ!これは僕の個人的な意見です。反論しないでね。」なんて言うのは、誰か聞いてもめちゃくちゃだと思うだろう。でもこれと同じようなことが色んな所で起きているのだ。