服を褒められたとき

 学生時代のファッションライフにおいては集大成の時期である大学4年生、本来なら脂も艶々に乗り切っているはずのこの時期に、未だに僕は、小学生が色鉛筆で人の顔を描くときに初めて鼻の穴まで描いたときのようなぎこちなさが漂う、そんな身なりをしている。そんな、ファッションに関してはかなり疎い僕なのだが、それでも本当にたまに、着ている服について「それいいね!」とか言ってもらえることもある。

 その「いいね!」と言われたときに取る対応の仕方なのだが、僕は誉められ方によって、2通り用意している。


(1)「そのジャケットいいね!」「そのカバンいいね!」みたいに、単品について誉められたとき

⇒「だろーう。僕もそう思って買っちゃったんだぜ。フヒヒヒヒ」


(2)「今日のファッションの雰囲気いいね!」みたいに、いわゆるコーディネート全体について誉められたとき

⇒「おぉぅ、ありがとよ! フヒヒヒヒ」


 単純に言うと、誉められたのが「物」なのか「僕」なのかの違いなのである。

 (1)の場合、誉めてくれた人は、単純に僕の着ていたジャケットや鞄を「かわいい」と思ってくれただけで(そういえば昨今はオシャレなモノに対して何でも「かわいい」って言うよね)、着ている僕を誉めてくれたわけではないと思っている。
 「そんなオシャレな服を選んだファッションセンスを誉めてもらってんじゃん」という反論もあるかもしれないけれど、ただ単品でオシャレな服を選んで買うだけなんて、大学生活で日々周りの人達の服装を目にしたり、たまにちょっとファッション誌などを見て感覚を少し養えば、簡単にできることだと思う。

 対して、(2)の場合は、曲がりなりにも、僕が自分なりに考えて生み出したコーディネート(この言葉は僕にとって「アナル」と同じくらい使うのが恥ずかしい言葉)を誉めてもらっているわけである。
 ただ単発でオシャレな服を買うのとは違って、コーディネートをするためには、一定のセンスが必要になる。色合い、デザイン、サイズ、自身との調和など、色々な要素を考慮してパーツを足したり引いたりしながら、意中の人との初デートの計画を練るように、自分なりの作品を完成させて身にまとう。そこには、ただ単に良いものを選んで買うだけの場合とは異なり、コーディネーターによって、少なからぬ付加価値が追加されている。「今日のファッションいいね!」は、他でもなく、「君の作品いいね!」「君のファッションセンスいいね!」と同義であると言える。そうやって僕自身のセンスを誉めてもらえたことに対して、「ありがとう」としっかりお礼を言うのである。
 

 ちなみに僕は、(1)の誉められ方をすることはたまにあれど、(2)の誉められ方をすることは滅多に無い。所詮僕は、優秀なデザイナーの方が創り上げた美しいデザインを見て辛うじて「おぉ、美しい!」と感じ、第2次世界大戦に突入するまでの日本の軍部の政策のように戦略の無い、不毛な単品買いを繰り返しているだけの男なのである。
 
 

 最後に、少し話がずれるけれど、そもそも僕は、ファッションに限らず、「何かを所有している」というだけのことが自分のステータスになるという考えは、ナンセンスだと思っている。「自分が創る」のではなく、「良いものを選んで買う」ことなんて、全部が全部そうとは言えないかもしれないけれど、大抵の場合、購入者には創造性は要らないし、大した審美眼も必要としないだろう。増してや今は、車にしろ、服にしろ鞄にしろ、シェアリングの技術によって、必要な人が必要な時にだけ借りることが可能になり、ネット上においても、クラウドの発達により、どんどん情報がシェアされている、「共有」の時代。「所有」というものの重要性はどんどん薄れてきている。所有から得られる満足感なんて、もはや時代の流れに取り残されつつある、幻想に近いものだと僕は思うのだった。